自分のタトゥーとお寺の繋がり 20210117記載分

もう十数年前に入れた指のタトゥー

正直な所自分でも驚いていていまだに当時何を考えていたのかよく分からない

ただ嬉しかった事と何かの覚悟を決めた事

そしてそれは突然だった事を覚えている

 

タトゥーを入れた経緯とかは置いといて昨日ふと気が付いた事の記録

 

20210116に知恩院さんと東寺さんに深いつながりがある事を知った

知ったと言うかずっと繋がっていたし分かったつもりでいた

 

だがそこにある仏像からヒントを頂いた

 

知恩院さんは阿弥陀如来さん

東寺さんは不動明王さん

 

自分の指にあるのと同じだ

 

阿弥陀如来さんは確か阿弥陀如来さんや浄土宗的なものでふいに入れたと思うけど、

何故お不動さんなのかがイマイチよく分かっていなかったと思う

 

何となく好きだから?

そんな風に漠然と捉えていたけど東寺さんは子供の頃の自分の庭でとても意味がある場所

そしてとても穏やかな気持ちになれ定期的に行くし特別な場所

 

仏教的な事はよく分からないけど単に心地よい

そして知恩院さんは父方で東寺は母方

間に生まれたのが自分

 

そう位置付けると何か深い意味があるように感じた

 

ずっとすぐそばにあった

そうゆうことかと腑に落ちた

 

 

伝え方について

これからの時代

人の夢を笑っているものが生きづらくなるだろうと思う

人の意見に振り回され批判ばかりしている人は結局自分が無い人達

 

批判する事で辛うじて自分を保っている

そう 安全地帯にとどまったまま

 

今はいいかも知れない

そしてまだ他人からの評価が重要と思われている

 

そんなものに振り回されても単に承認欲求を満たしているだけだと言う事に何故気付かないのだろう?と思うがまだそういった時代なのだろう

 

近いうちに自分はこうしたいといった事が価値に変わる

それは夢に近いものだと思うが夢と言うと皆大げさに考えてしまうだろう

 

そこをどうやって伝えるか?

 

どちらにせよ、この人生で自分はどう生きるかといった事を、誰かと比較するとか、出来る出来ないは別としてちゃんと持っておくことがステータスになると思うし時代は動いていると思う

 

子供で言うままごとの様に「何の役がしたい?」に答えられないとその遊びには加われないのと同じで、今他人の事を批判や馬鹿にしている人達は数字や他人の意見に振り回され、そう問われた時に答える事が出来ず慌てるのだと思う

 

「人のどうしたい」を批判したり馬鹿にしたりしていた言葉がそのまま自分に帰ってきて動くことすら出来なくなってしまうだろう

 

それは言われるのではなく自分が作り出しているものだがそれに支配されて抜け出すのは苦しいと思う

 

一体いつ気が付くのだろうか?

ある意味計算されつくされたネット社会の犠牲者かも知れない

そういった人達を今後どう救うか?先回りして考えておく必要があるように思う

 

 

伝える事について

過去のサイトでリアルな出会いがあり深く繋がっていた

いつの間にかまたそれを求めていたのかも知れない

それは単に群れたかったのかも知れない

 

どうやって伝えていくかばかりを考えていたが違う事に気が付いた

 

あの頃人が繋がったのは上からではなくリアルな全てをさらしていたからだ

頭では分かっていたつもりだが過去の自分みたいにマイナス思考ではない

自分の段階が変わった今 どうすべきかを考えた時

小説にして登場人物に喋らせようと考えた

それは今作成中で悪い事ではないと思う

 

 

言葉や表現で伝える事も大事

 

それとは別の方法に気付いた

 

それは姿を見せる事

これが過去の自分には出来ていたのだと思う

今こうやって書いている事が今の段階の自分の姿を見せる事だと思い少し増やそうと思っている

 

深い部分を伝えたい時

伝えなくていい

 

自分の言葉で感じたまま書けばいいし

書かなくても姿を見せる事が大事なのだと思った

 

受ける方だってひとりひとり感じ方もレベルも違う

だからこそそこで受け取れない人だっているだろう

 

本や映画をどのタイミングで見るのかといった事と似ていて無理に伝えなくても自分がその作品になれば良いのだと思った

 

表現した物とは違う何か

それも必要だしその方が心に響くのだと気付いた

 

 

誰にも必要とされない

誰にも必要とされない

そんな事や自分の事を邪魔な存在として価値を見いだせない人に何か出来ないか

最近それを考える

 

価値がないわけないし自分自身も陥って苦しんだことだからこそ伝えたいのだと思う

考えているものはいくつかあるがまだぼんやりしている

急ぐ必要がある気もする

 

この間それ系で記事をアップしたがアメブロは少し属性が違う気がする

 

自分がこう言いたいも大事だが相手がどう思っているかも大事

恐らく僕は体験者として両方分かる

 

必要なのは言語化や具体化

 

どうやらその部分で苦労しているようであれこれ試しているようだ

 

 

群れる事

群れる事がまだ重視されているようだ

そして人は群れたい生き物

 

但し最初も最後もひとつになる

孤独と孤立の違いをもっと理解してもらいたいとも思う

緊急事態宣言が出て再度群れる事と「個」の存在としてどうすべきかを突きつけられている様に思う

群れたい弱者は卑怯な手を使ってでも群れるだろう

今は何かを批判する事で辛うじて存在を保っているのだと思う

 

それはそれで仕方ない

ただその中でも最初のままごと状態が出来て、結局は自分の場合はどうしたいかが問われると思う

それは時間の問題で感じているより早いだろう

その中で悩み苦しむ人も大勢出てくるだろう

そういった人達を導くのに良い方法はないだろうか?

今から用意しておかないと間に合わない程のスピードで変化していっていると感じる

昔からそうだが自分自身が対象とする人は

自分から学べる人や自分から動ける人ではなく

何をどうしたら良いのか分からずにずっと落とし穴にとどまって、諦めてしまう人だと分かっている

 

その人たちが気付いた頃にはもう世界は変わっていて手遅れかも知れない

手遅れの状態から引き上げるのは難しい

 

しかし難しい事だからこそ自分向きだとも思うし何か出来るような気がしている

頭でっかちの知識デブにならず

思っているより低いレベルに話を落とし一人でも多くを引っ張り上げたい

 

望まれるなら誰一人置いていきたくない

その為に何がベストなのだろう?

 

 

ここ数日そういった事を考えている

単なる頭の整理で個人的記録

 

20210117記載

 

 

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